アルコール依存症は、本人が苦しむだけでなく、家族を巻き込みます。回復するには、お酒をきっぱりやめる「断酒」しかありませんが、周囲の理解と協力が欠かせません。依存症にともに立ち向かおうと、体験者やその家族が集うのが断酒会です。体験談を共有することで、患者の断酒を支え、家族の相談にも乗っています。会との関わりで社会復帰した元患者に、酒を断ち切るまでのエピソードを聞きました。

広島断酒ふたば会

62歳男性(取材時)

約30年間、お酒を飲まない日はありませんでした。大量に飲む、というよりは、ちょびちょびと。アルコールが切れたら、自分が自分でない感じがしてとても不安になるのです。飲んだら落ち着く、の繰り返し。家族や職場には本当に迷惑を掛けたと悔やんでいます。

お酒を口にしたのは、住み込みで大工になった15歳の頃。朝、職人が集まり、酒を飲むことが習慣で、私も先輩に交じって飲むようになりました。飲むと元気になって、何でもできるような気になるのです。

― 仕事中も飲酒

22歳で結婚しても飲酒の癖が抜けず、毎晩晩酌をしていました。「自分が稼いだお金で飲むのは当然だ」と開き直っていました。40歳頃からは、起きると一升瓶の酒を隠れてラッパ飲み。勤務中でも、車や材木の裏に隠した酒を飲み、夜は自宅で晩酌。止められないのです。

飲酒運転はいつものこと。飲んで仕事をするのでトラブルも多かったです。取引先に言われたことに、すぐにカッとなってもめたり、作業も完璧にこなせなくなったり。仕事の憂さ晴らしにまた飲むという悪循環。食事を食べられずに体は痩せ細り、目がぎょろぎょろしていて、誰が見ても異常な状態でした。

― おびえる家族

家族は見て見ぬふりです。今思えば、妻も3人の子どもも私が飲む姿におびえていたんですね。思春期の子どもの相談など一切されず、家庭のことなんて何も考えていなかった。朝、自動販売機で酒を買いに行く私の姿を、子どもの友達やその親に見られていた。娘は学校に行くこともできなくなりました。酒さえ飲まなかったら、家族は有意義な人生を送っていたでしょう。本当に申し訳なく思っています。

そんな生活が続き、病院に行こうと思ったのは44歳の頃。同じ大工の道に進んだ息子と現場で口論となり、「こんな酒を飲んだおやじと仕事はしたくない」と辞めてしまった。このままではだめだと思い、呉みどりヶ丘病院に行くことになりました。酒を上手に飲める方法を教えてもらおうとか、禁煙パッチのような手軽な治療法があるのだと甘く考えていました。

― 3カ月の入院

診察の結果は、栄養失調で、腹水はぱんぱんにたまり、黄疸(おうだん)も出ていました。入院が決まり、携帯電話が没収され、自傷行為をしないようベルトや服のひもが取られました。部屋には鍵が掛かっており、動揺して「出してくれ」と叫び続けました。ドアが開くと、長男が「おやじの人生、これでいいのか」、妻からは「お父さんをここに捨てるんじゃない。またみんなで元気に暮らせるようにしよう」と言われました。ようやく、ここまで迷惑を掛けていたんだと気付きました。その言葉は今でも耳に残っています。

治療初日の気持ちは、点滴を打ちながら「これで酒を飲まなくていい。ようやく酒と縁を切れる」と思いましたね。 入院は3カ月間続き、退院は嫌でした。治療で素に戻ると、自分がやってきた事の重大さが身に染み、家族にも職場にも顔向けできません。みんなの目が怖くて仕方ありませんでした。職場に謝りにいくと、腰が抜けたんですよ。ありがたいことに、家族も職場も受け入れてくれました。

― 断酒会が支え

退院と同時に、広島断酒ふたば会に入りました。定例会では、自分の体験や気持ちを言い合います。みんなの体験を聞いて「自分だけじゃない」と励まされます。酒を飲みたくないわけではありません。酒の新商品がテレビCMに流れると、飲みたくなることもあります。でも断酒会がブレーキになっています。平日は仕事が終わると、支部の例会に行き、休日は県内外の集まりに出向きます。飲みたいという気持ちを忘れさせてくれ、「飲んでいない」という確認の場でもあります。

今、一番幸せなのは孫と遊べること。酒を飲んでいる間は、子どもは結婚しないと決めていたらしいです。断酒後、3人とも結婚し、相手の両親にも私がアルコール依存症だと伝えているので、祝いの席などで酒を勧められず、受け入れてもらえています。周囲に自分が依存症だと隠さずに、言える状況がとても楽です。私が言える立場ではありま せんが、同じように悩んでいる方には、ぜひ断酒会に来てほしいです。断酒をするには、我慢しかありません。その我慢は、一人でするより、みんなでした方が長続きしますよ。

体験者インタビュー
依存症だった頃の後悔や家族への思いを語る男性
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